私が痛み治療専門鍼灸師になった訳

私の祖父は新撰組局長・近藤勇先生の娘婿・近藤勇五郎先生の直弟子だった。そのようなこともあって、私が剣道を始めたのは小学校1年生の6月頃だった。

そして、当時(小学生)、母がどこかで習い覚えたハリと灸を祖父に施しているところをボーッと見ていた記憶がある。

私はブルース・リーや空手バカ一代の世代なので、素手の武術にも興味があった。人体の急所を研究するうちに、急所と東洋医学のツボは同一であることに気付いた。小学校の勉強はしないで、母が持っていた東洋医学のテキストやツボの本、家庭の医学などをよく読んでいた。

あの頃からおぼろげながらこの道(鍼灸師)に進むような予感はあった…。

15歳。進学した学校の剣道部の夏合宿、2日目の夜、大きな気合いを常に出し続けるため声が掠れ、血尿がでた。「ああ、これが噂に聞く血尿か…」と感慨深く眺めた。朝5時起床、洗面の後、30分程、「ワッショイ!ワッショイ!」と大声を出しながらランニング、川原で体操、筋トレをして、またランニングで戻ってくる。朝食の後、午前9時から正午まで稽古。昼食後、昼寝。午後2時から5時まで稽古。夕食後、1時間くらい稽古。午後9時就寝。疲れているので夢も見ない、正に熟睡。1年生はOBや上級生の付き人もやらなければいけないので、中学校を出たばかりの子供には大変だった。中日は午後、稽古は休み。蓄積された疲労のため鉛のように体が重かった。1週間の合宿で10kg、体重が減った。

この年の全国大会で我が校は個人、団体ともに優勝した。

9月頃から腰痛と坐骨神経痛が発症。夏前に選抜され出場予定だった大会を断念。

整形外科を受診。X線写真(レントゲン)を撮ったが、骨に異常は無いと言われ、一安心。

通院を始め、すぐに治ると楽観していたが、しばらく通院したが、症状は改善するどころか、大腿後部(太ももの後)に限局していた痺れが足先にまで広がり、立ったままズボンをはくこともできなくなった。

稽古ができないので、剣道具の手入れ、太鼓などマネージャーのような仕事をやるために、剣道場に通った。焦った。仲間はどんどん強くなっていく。1人取り残されていく気がして、辛かった。「なんでこの大事な時期に腰痛なんかになるんだ!」と誰にも向けることのできない怒りを内にはらみ、いつもイライラしていた。

当時は、まだ、整形外科にに行けば、身体は良くなると純粋に信じていた。が、通院するうちに、どうもそうでもないらしいことに気付き始めた。

その年の10月頃だったろうか、心配した監督にある鍼灸院を紹介していただいた。これがプロの鍼灸師の治療を受けた初めての経験であった。

なるほど、やってみるとハリは効果がある!

私の腰痛に関する限り、明らかに整形外科の牽引療法や温熱療法、シップより効果がある。

当たり前である。整形外科は外科なのだ。折したり筋肉や靭帯が切れた時に手術などで外科的に処置するところが整形外科なのだ。

逆に言えば、X線やMRIで骨や筋肉になんらの異常がなければ、整形外科の適応外である。だから、薬剤や前述したような方法で様子をみる以外に治療の手段がないのだ。

手術をしない整形外科は本当に存在意義が無い。それどころか有害である。多くの整形外科医が発痛メカニズムを知らず、化石のような説明(神経損傷モデル)を患者さんにする。いわく、

骨が変形して神経が圧迫されて痛みやしびれが起こる

では、X線写真で骨の変形が無いのになぜ、私の腰痛は起こったのだろう?

上記の神経損傷モデルで説明された患者は無効な治療を長期にわたって受けるために痛みの悪循環が起こり、治りにくくなる。

手術をしないのはかまわない。しかし、整形外科というだけで患者が来院し、そのため新しい学説を勉強せず、謙虚に鍼灸など他の有効な治療法を認めない整形外科医は本当に有害である。

話を戻そう。

ハリ、灸を続けるうちに症状が軽くなってきたので、稽古再開。しばらく、良かった。しかし、再発。静かにしていれば痛みはでない。空手の動きをしても痛みはでない。

剣道の打ち込みをやると腰痛がでるのだ。私には剣道が向いていないのだろうか

そう。向いていなかったのだ!

人それぞれに体質や体格は異なり、競技にも向き不向きがあるのだ。水泳を志す人が水に入ると冷えて腹痛や下痢を起こすのであれば、その人は水泳には向かない体質なのだ。

稽古をしたり休んだりを繰り返しているうちに年を越し、3月、春休みになった。毎年3月は首都圏から剣道の強豪校が40数校も我が校に集まり、練習試合を行う。

調子が良かったので「お前も出ろ」と監督に言われ、出た。結果は散々だった。当たり前である。どの学校の生徒も国体目指して毎日厳しい稽古に励んでいるのだ。腰痛で稽古したり、休んだりの私が勝てるわけが無い。

悔しかった!情けなった!情けなくて、泣いた!人目も気にせず泣いた!

この様子を見ていた監督に体育館2階の教官室へ呼ばれた。そこには痩身碧眼の外国人がいた。彼はオーストラリア人カイロプラクターのDr.デニス・マーだった。彼は監督の出身大学に剣道を習いに来ていた。

監督は私にDr.マーを紹介してくださり、治療が始まった。

診察の結果、私の腰部の前湾(脊柱はS字にカーブしている。これは足からの衝撃が脳に直接伝わらないようにショックアブソーバーの役目をしている。)がきつ過ぎるため、腰周辺の筋肉が緊張して、痛みが出るということだった。

カイロプラクティックも効果的だった。

しかし、良くなって稽古を始めると逆戻りだ。この繰り返しで、2年生、3年生と過ぎっていった。

3年生の秋に区の大会があり、我が校は個人戦と団体戦に出場した。

私は「もしかしたら最後かな…」という思いを胸に試合に臨んだ。

順調だった。身体が動いた。1回戦、2回戦、3回戦と勝ち進んだ。「行けるかも!」私は思った。ところが、準決勝で戦っているとき、臀部から足に痺れがでた。足が出なくなり、動けなくなった。負けた。

決勝戦の前に3位決定戦があった。準決勝後、少し休むことができて、幾分回復した。3位決定戦の相手は大柄なN大Tヶ丘高校の選手だった。

回復したとはいえ、やはり足は動かない。私は相手の攻撃に合わせて出小手と抜き胴で勝利し、3位になった。これが私の最後の試合となった。

この大会の後、Dr.マーに「剣道を止めないと、腰痛は治らないかもしれない」と言われた。

翌年3月。学校は春休みに入っていた。霙が降っていた。この日もみんな稽古をしている。

私は稽古終了後、教官室に監督を訪ねた。監督は私の姿を見るなり、私がこれから言い出すことを察したようだ。

私は静かに退部届けを差し出した。監督はそれを見て、「お前は剣道を知っている。後輩の指導もできるし、マネージャーとして残らないか」と慰留してくださった。

しかし、私の心は決まっていた。「お世話になりました。ありとうございました。」と言い、部屋を辞した。監督には心身両面において、本当に良くしていただいた。今でも感謝している。

私は15歳でひどい腰痛と坐骨神経痛になった。私の青春はまったくの不完全燃焼だった。心身ともに疲れきっていた。この頃だった、はっきりと鍼灸師になり、私のように心身ともに苦しんでいる方々のお役に少しでも立ちたいと思うようになったのは。
その後、私は明治鍼灸大学に入学した。

 私のミッション

鍼灸を駆使して、全力そして誠実に、痛みに悩む方々の痛みをとり、
それを通して皆様の幸福実現のお手伝いをすること。

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